2017年6月29日木曜日

普通の生活のうれしさ

6月は前月の仕事量調整のため、一時的にいくつかの負担がなくなり、新規案件の件数が調整され、仕事が落ち着いていた。

そのためか、エネルギーが渇れず、まずは土日に遠出ができたり、両親と関わることが苦でなくなり、次に掃除や料理にまで手がまわるようになった。

このなんでもないこと、普通に日常生活を営めることがとてもうれしく、ありがたく感じている。

これは一人暮らしならではな部分もあるかもしれない、と思う。

仕事や人間関係でエネルギーが枯渇すると、掃除や食事から手抜きになっていき、毎日なんとか起きて服を着て仕事に行くだけで手一杯。

家族がいれば家族のために掃除や洗濯やごはん作りをする理由があるけれど、一人だと、何かのせいにできない。

わたしは時たま、人が住むようなものではないところまで家が荒れ果て、食生活も滅茶苦茶になる。

一方で、エネルギーがあふれてきて、自分を含めた誰のためでもなく、理由もなく、ただただ純粋に、料理や掃除やアイロンがけが静かに楽しいことがしばしばあり、それは言葉で言えない小さな小さな大切な宝物✨

2017年6月25日日曜日

終わり方について

祖父は施設と病院を行き来しながらの生活で90歳を過ぎている。

癌や心不全はあるものの、ボケてもおらず、病のことは一切知らず、食欲旺盛で生への執着がとても強い。

最近、祖父のところへ顔をだしたくなくなってしまったり、祖父に付きあうやさしさを持てない自分がいる。

祖父の祖母への執着の強さ、構ってもらえない瞬間があると機嫌が悪くなること、食への激しい執着。

もちろん自分の中にも同じ自我の種はあるけれど、それらをとても嫌だ、受け入れたくないと感じてしまう。

人間が死を受けいれるとき(死の近さに関係なく生命を使いきろうとするとき)、美しさや力強さ、清謐さがあふれる瞬間があるようになんとなく感じるけれど、その真逆を見ているからなのかもしれない。

祖父には祖父のペースがあるし、祖父の気持ちはまったくわからないけれど、時間がもったいないと感じてしまうし、厳しいことや大事なことを誰も祖父に言えない家族のあり方にも考え込んでしまう部分がある。

仕事一筋で頑張ってきた人だけれど、誰かから満たしてもらおうとする昔から変わらない姿に嫌だと感じてしまうのかもしれない。

自分自身が生ききれていないから祖父のあり様を受け入れたくないのかもしれないけれど、最後の最後まで自分の心の平安への責任の軸足を自分自身にすることを忘れないで生きたい。

そして、心の面で迷惑をかけずにきれいに終わりたい。


家族では煮詰まってしまうことも、仕事としてまったくの他人である施設の看護師さんが生活の中に入ることがこんなにも大切でありがたいということを初めて知った。


「罪や病気や攻撃は、優しさと愛による癒しを求めている誤った知覚と捉えられる。(奇跡講座 教義/中央アート出版)」
次に祖父と会うときは、これを心に留めようと思う。

逆転のさびしさ

自分自身の加齢を感じると共に、最近とみに両親の老いを感じる。

問題はたくさんあるし、父の困った部分は困ったままで、母の癇癪やこれが善だ!の押しつけも変わらない。

でも、それぞれの家に住んでいる3人がたまたまのタイミングで一緒にスーパーや神社、温泉やごはんや旅行に行くとき、心から満足のいく満たされた気持ちになったり、本当に楽しかったりすることが多くなった。

何かの拍子に自分が不機嫌の渦に陥ることもあるし、母が父を責め始めることや父が爆発することもあるけれど、それさえも笑いに変わってしまうことがあったり、その居心地の悪ささえも愛しかったりする。

家族関係を見つめ始めるまで、愛情とは両親の意に沿うことや期待に応えること、親に何かを返さなければいけないことと思っていたし、そうした役割をすることで自分の存在意義を見いだしたり、存在することへの不安を埋めようとしてきた。

その自分で勝手に選択した偽りの役割やめると選択しようとしつづけるとき、自分の人生や選択に責任が生まれて誰かのせいにはできないし、初めて親とは関係のない自分の人生がスタートする。

そのあり方が心地よくなったり、父と母の二人の関係性を安心して見ていられる部分がふえたし、自分が両親の手から放れて新しい家族を作ることにも抵抗が少なくなりつつある。

ただ、家族関係が少しずつ自由になったり安心したりすると同時に、愛しくて両親の老いや世代交代だと感じるとさびしくて握りしめたくなってしまう。

人間は問題の中に入り込んでいるときはその葛藤がなくなってほしいと感じるし、満たされているとその状況が続いてほしいと思ってしまうみたい。

心配はしていないけれど、ただただ今与えられている家族の時間が愛しい。

2017年6月22日木曜日

一人暮らしのごはん事情

料理が好きでたまらない人は別として、一人暮らしかつフルタイムでの正社員の仕事となると、だんだんごはんが手抜きになる・・・。
(←ちょっと言い訳 笑)

私の周りは、社内の実家暮らしの先輩たちは家に帰るとお母さんの手料理が待っていて、同じ年代の一人暮らしの友だちは料理まで手が回らなくて作らなくなっちゃった~という人が多い。

この一年~二年ほどは特に、平日は帰宅すると電池が切れたように何もできず、休日も寝ているかおでかけかの怠惰な生活。

お金がかかる負担<ないエネルギーを搾って料理する負担

って感じ。

もう少し要領よければなぁと思う日々だ。

でも、外食や買ってくるものにも飽き、お金もかかるし、なにより年齢的にも身体の健康が少し気になり始め、なんとか料理とお弁当を続けたいなと思っている。

今日は久しぶりの午後休♪

久々に料理スイッチが入り、とても楽しくてあっという間に時間が過ぎた。

夢中だったり、理由なく楽しく作れたときは味もおいしい✨

なによりも、お鍋で炊くことこと煮たり、味が染み込むのを待ったりという心のゆとりがうれしい。

なんとか続けてみようかなぁと思う。

2017年6月11日日曜日

写真

生命あふれる本当に美しいその一瞬を、カメラがたまたま切りとっているということがある。

カメラを習ったことはないし、一眼レフのカメラも使ったことはないけれど、ごくたまにそんなことを感じる。

これまでは植物や風景の写真になんとなくそうしたことを感じていたけれど、友人や母を撮る機会が続き、作り物ではない、何か生き生きとしたものがあふれだす一瞬は確かに存在するなぁと思える。

そしてその一瞬は本当はいつでもどんなときでも在り続けているものなのかもしれない。

その切りとられた一瞬は本当に美しく、力と喜びをもたらしてくれ、いつまでも見ていたくなる。

2017年6月5日月曜日

背伸びをやめること

今日は友人の披露宴に出席させてもらった。

人と話すことがとても苦手だったり、極度に緊張して萎縮してしまうことのある人。

そんな彼女が、取り繕ったり無理して背伸びすることなく、ただただそのままを受け入れられていて、素敵な笑顔でうれしそうな様子を見て、わたしも嬉しくなった。

こうでなくては自分はダメで価値がない、あるいは、他者からどう見られるか(バカにされないようにしなくては)を気にする自我のパターンが何度でもやってくる。

それでも、ひとつ自分の中のくだらない戦いから降りると、余分な力がぬける。

今回、披露宴のための服や装飾品は母が張りきってくれ、感謝はしているのだけど、そこにはやっぱり力みがあり、自分の好みではなく、他者からよく見られなければあなたはダメだという無意味な競争が含まれている。

私自身も自信のなさから、そうした恐れが根底にある母の自我のパターンにのってしまった。

一旦静まり、本当に大切なことはなにか問い直しつづけよう、自分はダメだという錯覚はもうやめたい、そう思った。

今日の友人の姿も、お気に入りの物たちも、自分で自分にかけている呪(自分で選択しているパターン)はもう必要ないんじゃない?という呼びかけのように思える。

ひとつ階段から降りて、特別な何かにならなくてもいいかもしれないと思えたら、頭を悩ませていた作成中の文章も生まれていた。

競争から降りること、何者かになるのをやめてみること、そうしたい。

2017年6月4日日曜日

シンプルさと素朴さ

たまたま本屋さんで手に取ってから、この半月ほど、小川糸さんのエッセイや小説が好きで色々読んでいる。

ご主人との日常生活の様子から「結婚」とか「誰かと関係を築くこと」に対して少しだけ肯定的に思えたり、丁寧でシンプルな生活の描写が好きだったり。

母から精神的・物理的に離れてみて、わたしはシンプルさと素朴さとゆとりをとてもとても大切にしたいのかもしれないと感じている。

特別なこと、特別ななにかは本当は必要なく。

「特別ななにかをもったわたし(物も能力も容姿も)」でなければならないという信念を完全に放棄できたら、きっとずっとラクになれるだろう。

今、とてもお気に入りのものが2つある。

ひとつは時計で、もうひとつはお花のついたかごバッグ。

どちらも一目惚れで、見ていると静かなうれしさと自由さと、素朴さの中の愛らしさを感じる。

ぎゅっと防御しつづけている鎧が綻び、そうしたものが自分の中からも顔をだせたらうれしいなぁと思う。

なにも考えていないときに予想外に訪れるそうした選択は、本当はこう在りたい、この窮屈さはもうやめたいというものに気づかせてくれるようだ。

糸さんの本も、たまたま心から気に入って自分の元にきてくれた物たちも。

父からのLINE

父もわたしも、お互いに遠慮や信頼の欠如というものがどこかある。

だから、時々自分でも嫌になるほど、ぎこちないなぁと苦笑してしまうこともある。

そんな関係だから、父から近況報告のLINEや電話がくることはほとんどないのに、今日はなんの前触れもなく、そうした連絡があり、たわいもないやりとりが無性にうれしくてあたたかかった。

時間や回数は圧倒的に母との連絡の方が多いのに、常に効率と自分の言いたいこと優先の母とでは、そうした楽しい間(ま)は今のところ感じられない。

今夜、父は東京にいるらしく、神社の写真数枚と共に、たい焼きの行列に並んでいる状況報告が送られてきた(笑)

更にオチは、地元でいつも食べているたい焼きの方がおいしかったとのこと。

父はいつもおバカさんなところを見せて一緒にそれを笑わせてくれる。

正しいことが善で、間違ったりバカなことは絶対にダメだという信念からなかなかぬけられないわたし。

自分の中のバカさをゆるやかに笑い飛ばすことができれば、もう少しやわらかな人間になれるかもしれないなぁと思う。

2017年6月2日金曜日

他者からの評価

「自分はダメだ」という判断をやめられないわたし。

それは、会社の中にいても、家族の中でも、生き方全般においても。

パターンというのは、それを持ち続けることでの「メリット」が必ずある。

今朝は歩きながらふと、あぁ、わたしは他者からの基準や評価があるとものすごく安心するんだ、と気づいた。

それは「よい」と評価されることでも、「ダメだ」と評価されることでも。

たとえば、会社の中のことを考えたとき、自分よりも上の人がいて、よいだのダメだの言われると、自分の位置が明確で、所在のなさに気づかなくてすみ、存在の不安をごまかせる。

でも、そうした基準や評価は本当に正しいのか、自分を生きやすく自由にしてくれるのかはわからないこと。

よくできると評価されることも、逆にあなたはダメだと評価されることも、本当に表裏一体。

そのことがふと腹に落ちると同時に、身体の膨らみや浮腫が少しひいた。

もしかすると、そうした価値観は自分を幸せな状態から遠ざけてしまうことに気づき、もうそのやり方はやめてもよいと決断し始めた瞬間なのかもしれない。

一度こうした気づきで一瞬でも立ち止まることができれば、あとは何度でも選択し直せるはず。

小さな小さな希望の光に思える。