2017年1月29日日曜日

選択への戸惑い

ひとり暮らしをしてみて、自分の好みや心地よく感じるものを考えなければいけない時間がふえた。

その自由さはとても苦痛だった。

あらゆることをどうやって選択したらよいのかわからないし、好みなんてわからないし、何から手をつけて好みを探せばよいのか、本当に本当に本当にわからなかったから。

これまで、服を買ったり選ぶことも、お金の使い道も、行く場所も、読む本も、すべてを母に把握されていたし、母の顔色を見てそれに合わせれば世間的にも失敗することは少なかった。

でも、亀の歩みのようだったけれど、少しずつやらざるを得なくて、食器やキッチン用品、リネンや毛布、服や靴、見たい番組、旅行の仕方、生き方、結婚観などなど、失敗しながらも好みは少しずつでてきている。

たくさんの失敗を重ねて、貯金も随分減ったけれど、やってみた数だけ見えてくるものがある。

ひとつずつ心地よく感じるものに囲まれていったり、心が緩む時間を見つけると、とっても嬉しくなる。

ハーブティーやお茶を時間をかけて淹れる時間、土鍋でことこと煮る時間、日向ぼっこしながら休日にお昼寝する幸福感、くだらないテレビを見たり漫画を読むだめだめな時間、無目的に歩くこと、旅先で生活に溶け込むわくわく感。

そうしたものは、母が好むものとは真逆であり、母に合わせていたらまったく見えてこなかったもの。

このひとつずつ探しあてている心地よいものは、宝物のようにぎゅっとしたくなる大事なものだ。

でも、次の瞬間に好みや価値観は変わってもよくって、握りしめておく必要もなくって、流動的でいいのだ。

母の自由

母のわたしに対する過干渉とコントロールは、その上の世代の祖母と母の間にもある。

母自身がその関係性に不満と怒りをもっていながらも、母自身が娘に対して同じことをしているとは本人はまったく気づいていない。

おそらく、わたしがただ母のことを嫌いになって出ていったくらいにしか思っていないだろう。

もしわたしに子供や夫がいれば、同じような家族関係になっていたかもしれない。

わたしは母を変えようとは思ってはいない。

母がどんな風に物事を見て、どんな行動をして、どんな風に感じながら毎瞬を歩んでいくかは、完全に母の自由だからだ。

このことを受け入れることには時間を要したし、今でも裁きたくなる衝動は幾度となく起こる。

逆に、わたし自身の幸せや窮屈さも誰かのせいではない。

この自由さを完全に受け入れられたなら、人間関係のなかでの葛藤や恐れは激減し、恐れからコントロールをしてしまうということもなくなるだろう。

ひとり暮らし

母との物理的距離をとるため、プライバシーを守るため、そして、何よりも母の過干渉と不機嫌によるコントロールに我慢ならず、私は同じ市内に住みながらも「ひとり暮らし」を選択した。

決して肯定的な理由ではなかったけれど。

そして、半ば家出状態だったけれど。

物理的距離をとって、母が目の前にはいなかったとしても、習慣や思考や罪悪感というものは、わたしを縛りつけて支配した。

それは今でも同じだ。

仕事でも家族でもストレスがピークに達し、ちょうど休職をしていた時期でもある。

あまりの孤独とさびしさと不安とに、わたしは気づかぬうちに逃避と依存という迷路に入り込んでいった。

お金の管理から目をそらし、適切な量の食べ方がわからず、もっとも重要ななことを話せる人はいなかった。

いたのかもしれないけれど、問題から目をそらしたかったし、本当に孤独で恐くて仕方がなくて、いつも恐れて心を開けなかった。

働き始めてからの貯金がほとんど消え、気づかぬうちに容姿も太って変わり果てた姿になっていたことに気づけたのは最近のことだ。

それらの表面的な問題は、心の奥底の錯覚と単なる誤りであり、どんな瞬間からでも訂正はできるということを気づかせてくれるきっかけとなる。

ひとり暮らしを始めてからそういう風にしかやってこられなかった自分を責めることなく、ただそこに存在しているように見える問題を直視し始めたとき、自分の中で少しだけ何かが変わり始めた。

親に対し、わたしはあなたのやり方に付き合うことはもうしたくありませんという激しい主張を突きつけることもした。

思考の上や物理的距離や経済的自立ということでなく、精神的な自立と親離れが訪れたとき、不安と同時に芽吹きのように感じられた。

視界が開け、どんな選択もできる自由が目の前にただただ広がっているかのように。

それはほんの一瞬のことであり、幾度もこれまでと同じパターンは訪れるけれど、少なくとも今は、これまでとは違った心の選択もできる、そこには自由があるということをどこかで気づいている。

とっても大きな一歩だ。

2017年1月28日土曜日

生命は弱くない

人間は、他者を傷つけたり、他者から傷つけられるような弱い存在ではない。

幾度も母とぶつかったり、自分の意見や好みを押し通すというチャレンジを続けてみて、母は私が思い込んでいたような弱々しい存在ではないということには確信をもっている。

同時に、母からの言動で自分が傷つくということも錯覚であり、自分が不幸な理由を他者に責任転嫁していること。

私がキレて家を出るたびに、母はこの世の終わりというくらい泣き叫び、体調を悪くし、土下座のごとく謝り倒すけれど、そこには本当の詫びがないことが透けて見えてきたし、一瞬のちには立ち直っているから。

この人間の強さと自分への責任という点は、母娘関係だけでなく、あらゆる人間関係にあてはまると思う。

自分の中の強さ、他者の中の強さを確信をもって信頼できたとき、初めて、横暴という意味ではなく、本当に自分のやりたいことができ、自分の好みを探っていくことができ、自由と平安が訪れるのではないか。

関係性の脱却に伴う痛み

甘美で安全な母娘関係から脱却することは、自由であると同時に、本当に脱却し始めたときには、ドン底の孤独と責任が押し寄せる。
それでも、そこには清々しさが溢れる。
どれほど大きな孤独と責任への恐怖があってもだ。
ドン底の孤独と責任を突きつけられて初めて、今直面している様々な状況に能動的に向き合い始め、誰かに自分の苦しみの原因を責任転嫁できなくなる。
ようやく大人への一歩だ。
私自身が思考の上ではなく、本当の意味でこのことが腹に落ち始めるのには、色々な取り組みをしていたにも関わらず、相当な年月を要した。
やろうと思ってすんなり受け入れられるものでも、理解して実践できるものでもないから厄介なのだ。
でも、覚悟を決めて本当に求め続けたときには開かれない扉はない。
どれほどの年月がかかっても。

追記:
この日、新年早々、母に対してブチ切れた。
ただ単に感情で怒ったわけでなく、キレるという表面的行動と同時に、深い孤独感と責任が押し寄せ、それらを受けいれた瞬間に何度目かの精神的自立を感じた日でもあった。
例え無意識下であっても、両親に精神的に依存(気持ち悪い意味合いでなく、孤独を埋められたり、自分の人生の責任をなんらかの形で回避すること)があれば、新しいことや変化を受けいれなくて済み、窮屈ではあるけれど楽ちんな部分もある。
本当の自由や幸せでなくても、牢獄の中の方が一部メリットに感じられる気がする部分があるから、人間って厄介(笑)。

わたしが経験している家族関係

ドラマ「お母さん、娘をやめていいですか?」を見ながら、回を重ねるごとに、私自身が経験してきた家族関係と酷似していてぞっとしている。

作中の母娘の会話もほとんど同じであり、仲良し親子、服の趣味から好みまですべて同じ、お互いの考えていることは手に取るようにわかる、などなど。

今から約5年ほど前、20代前半の頃、家族関係にふとした違和感を感じ、何かもっとよい形があるはずだと思ったことが、戦いの始まりだった。

そう、ドラマの中のお父さんの言葉通り、「戦い」なのだ。

相当の覚悟がないと、これまでの関係性を変えることは難しい。

愛情という仮面を纏っている蜜月は手放しがたいほど甘美であり、ある意味では安心を与えてくれるから。

そして、何より、愛情を与えてもらっているのに裏切ってしまう自分でいいのか、自分のことを何よりも考えてくれている母を悲しませていいのか、自分ばかり好きなことをやっていいのか、という罪悪感に幾度も幾度も苛まれるからだ。

疲弊してまで母との間に荒波を立てることもないのではないか、この戦いはそもそも間違っているかもしれないと、感じてしまうこともある。

これまで通りの関係でいることを選択してもいいし、変えてみたい!と新たな扉を開いてみてもどちらでもいいのだと思う。

ただ、私自身は、新たな一歩を踏み出すことで、自由を体験し、本当のやさしさや思いやりをもて、人生を味わい尽くすことができるのだろうということには確信をもっている。