母が根本的にはなにも変わっていないように思えてしまっても。
そうした中でも、母がわたしの話を全然聞いてくれず、いつも自分の言いたいことだけを話すということには、今も怒りと悲しみを何度も何度も感じてしまう。
見知らぬ人がわたしたちの母娘関係を見ると、一見すると、和やかに話をしていて仲もよさそうで、母は娘のことを気にかけているように見えることすらあるかもしれない。
実際には、母は常に自分のことに一生懸命で、常に主人公でありつづけて、他者が誰も関われない一人きりの世界の中にいつづけている。
例えば、わたしが具体的に伝えなければならない用事があっても、その話をする前に母の話にすり替わってしまったり、高熱でうなされていても母の話が延々とつづいたり。
なので、もっとたわいもない話は母の耳にも届かず、笑いや親密さといったことも起こり得ない。
その「共有できない漠然としたなにか」に違和感を感じ、これ以上無視できないと感じたのが数年前。
違和感からもう少し深く探っていったら、そこには気づいてもらえなかったわたしの怒りや悲しみがあった。
このことへの怒りを持ちつづけているわたしは、別の意味で母と同じで、ストーリの主人公になりたがり、被害者でいることを選択し、他者を責めたい衝動に駆られる。
実際に、母以外の人との関係の中でも同じことが起こり、怒りがわきおこり、パターンは何度でも繰り返されることに気づかざるを得なかった。
それを見たときに、悲しみがあることは無視しないけれど、母との関係で満たされなかったこの怒りを他者のせいにするのはもうやめようと決めた。
こうした選択をつづける中で、母がまったく話を聞いてくれない人でも、その在りようを心からゆるせるといいなと思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿