2017年7月23日日曜日

意味や目的がないこと

意味や目的があると、それらを見いだそうとしたり、それらに向かうことが起こる。

そうしたときには予測不能なことは喜びではなくなり、「隙間(何かをしようとすることなくぼーっとして、起こることを起こるままに受け入れること)」がなくて窮屈で退屈で、たぶん、いつも正しいか間違っているか、成功か失敗かを判断して怯えなければならない。

母は、精神力だけで全力で無駄なく目的に向かおうとし、あらゆることに意味を見いだし、すごいのはそれらを本当に成し遂げてしまうこと。

それはこの世界で生きる上ではとても役立つことだが、すべてのことが母にとっては義務であり、楽しさがなさそうで、毎瞬がとても忙しくて苦しそうだ。

私自身が信じ込んで採用している信念の通りの世界を見ているように、母もそうした忙しくて窮屈な生き方を選択しており、その選択は母の自由だけれど、本当はそうする必要がないことを共に見ることができればと思わずにはいられない。

車の運転も料理も、時間を効率的に使うことが最も正しいことであるのなら、寄り道や失敗、ただ無目的にふと思い浮かぶ通りにやってみること(料理なら食材の組み合わせ、運転なら目的地のないドライブなど)はダメなこととなるが、私にはそうした中に自由や喜びがあると感じられる。

無目的にゆるゆると、両手を開いて起こることを起こるがままに受けとっていくこと。

母を見るたびにそうした在りようを忘れたくないと何度も何度も思う。

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