2017年7月23日日曜日

祈り

最近、父の老いへの悲しさや母の健康への不安が私の中を渦巻いている。

様々な問題や葛藤、家族の中での自分自身の在り様や生き方にとても悩んできたけれど、少し前から一区切りついた感じもある。

感情や葛藤のままに家族の中に入り込むのではなく、少し引いた状態で見られるようになった部分もあるのかもしれない。

そうした感じで両親それぞれの生き方を見せてもらうと、どうしてそうなんだろう、もっとこうしたら楽になれるのにとか、ずっと元気でいてほしいなどとつい思ってしまう。

他人へはドライになれる部分も、愛情を注いでもらってきた両親に対しては、自分の願望がいっぱいでてくる。

私は彼らに彼らが知らない選択や景色を差し出すことはできるかもしれないが、彼らを変えたり、自分がこうだといいなぁと思うものを押しつけることはできない。

その自分の思いとの葛藤を感じるとき、私は両手を空っぽにしてただただ祈ることしかできない。

その祈りは彼らを変えることや、彼らに何かよいことが起こることではなく、自分と同様に彼らも真に幸せで自由であれますようにと、自分の思いや願いを含めたすべてを放して投げること。

時間というものがリアルな中では、変えようもないこと、変えようもできない状況ということは起こってくるけれど、すべては自分には計り知れないことであり、コントロールできることはないから。

両親の存在はこのことを思い出させてくれる。

意味や目的がないこと

意味や目的があると、それらを見いだそうとしたり、それらに向かうことが起こる。

そうしたときには予測不能なことは喜びではなくなり、「隙間(何かをしようとすることなくぼーっとして、起こることを起こるままに受け入れること)」がなくて窮屈で退屈で、たぶん、いつも正しいか間違っているか、成功か失敗かを判断して怯えなければならない。

母は、精神力だけで全力で無駄なく目的に向かおうとし、あらゆることに意味を見いだし、すごいのはそれらを本当に成し遂げてしまうこと。

それはこの世界で生きる上ではとても役立つことだが、すべてのことが母にとっては義務であり、楽しさがなさそうで、毎瞬がとても忙しくて苦しそうだ。

私自身が信じ込んで採用している信念の通りの世界を見ているように、母もそうした忙しくて窮屈な生き方を選択しており、その選択は母の自由だけれど、本当はそうする必要がないことを共に見ることができればと思わずにはいられない。

車の運転も料理も、時間を効率的に使うことが最も正しいことであるのなら、寄り道や失敗、ただ無目的にふと思い浮かぶ通りにやってみること(料理なら食材の組み合わせ、運転なら目的地のないドライブなど)はダメなこととなるが、私にはそうした中に自由や喜びがあると感じられる。

無目的にゆるゆると、両手を開いて起こることを起こるがままに受けとっていくこと。

母を見るたびにそうした在りようを忘れたくないと何度も何度も思う。