2017年6月5日月曜日

背伸びをやめること

今日は友人の披露宴に出席させてもらった。

人と話すことがとても苦手だったり、極度に緊張して萎縮してしまうことのある人。

そんな彼女が、取り繕ったり無理して背伸びすることなく、ただただそのままを受け入れられていて、素敵な笑顔でうれしそうな様子を見て、わたしも嬉しくなった。

こうでなくては自分はダメで価値がない、あるいは、他者からどう見られるか(バカにされないようにしなくては)を気にする自我のパターンが何度でもやってくる。

それでも、ひとつ自分の中のくだらない戦いから降りると、余分な力がぬける。

今回、披露宴のための服や装飾品は母が張りきってくれ、感謝はしているのだけど、そこにはやっぱり力みがあり、自分の好みではなく、他者からよく見られなければあなたはダメだという無意味な競争が含まれている。

私自身も自信のなさから、そうした恐れが根底にある母の自我のパターンにのってしまった。

一旦静まり、本当に大切なことはなにか問い直しつづけよう、自分はダメだという錯覚はもうやめたい、そう思った。

今日の友人の姿も、お気に入りの物たちも、自分で自分にかけている呪(自分で選択しているパターン)はもう必要ないんじゃない?という呼びかけのように思える。

ひとつ階段から降りて、特別な何かにならなくてもいいかもしれないと思えたら、頭を悩ませていた作成中の文章も生まれていた。

競争から降りること、何者かになるのをやめてみること、そうしたい。

2017年6月4日日曜日

シンプルさと素朴さ

たまたま本屋さんで手に取ってから、この半月ほど、小川糸さんのエッセイや小説が好きで色々読んでいる。

ご主人との日常生活の様子から「結婚」とか「誰かと関係を築くこと」に対して少しだけ肯定的に思えたり、丁寧でシンプルな生活の描写が好きだったり。

母から精神的・物理的に離れてみて、わたしはシンプルさと素朴さとゆとりをとてもとても大切にしたいのかもしれないと感じている。

特別なこと、特別ななにかは本当は必要なく。

「特別ななにかをもったわたし(物も能力も容姿も)」でなければならないという信念を完全に放棄できたら、きっとずっとラクになれるだろう。

今、とてもお気に入りのものが2つある。

ひとつは時計で、もうひとつはお花のついたかごバッグ。

どちらも一目惚れで、見ていると静かなうれしさと自由さと、素朴さの中の愛らしさを感じる。

ぎゅっと防御しつづけている鎧が綻び、そうしたものが自分の中からも顔をだせたらうれしいなぁと思う。

なにも考えていないときに予想外に訪れるそうした選択は、本当はこう在りたい、この窮屈さはもうやめたいというものに気づかせてくれるようだ。

糸さんの本も、たまたま心から気に入って自分の元にきてくれた物たちも。

父からのLINE

父もわたしも、お互いに遠慮や信頼の欠如というものがどこかある。

だから、時々自分でも嫌になるほど、ぎこちないなぁと苦笑してしまうこともある。

そんな関係だから、父から近況報告のLINEや電話がくることはほとんどないのに、今日はなんの前触れもなく、そうした連絡があり、たわいもないやりとりが無性にうれしくてあたたかかった。

時間や回数は圧倒的に母との連絡の方が多いのに、常に効率と自分の言いたいこと優先の母とでは、そうした楽しい間(ま)は今のところ感じられない。

今夜、父は東京にいるらしく、神社の写真数枚と共に、たい焼きの行列に並んでいる状況報告が送られてきた(笑)

更にオチは、地元でいつも食べているたい焼きの方がおいしかったとのこと。

父はいつもおバカさんなところを見せて一緒にそれを笑わせてくれる。

正しいことが善で、間違ったりバカなことは絶対にダメだという信念からなかなかぬけられないわたし。

自分の中のバカさをゆるやかに笑い飛ばすことができれば、もう少しやわらかな人間になれるかもしれないなぁと思う。

2017年6月2日金曜日

他者からの評価

「自分はダメだ」という判断をやめられないわたし。

それは、会社の中にいても、家族の中でも、生き方全般においても。

パターンというのは、それを持ち続けることでの「メリット」が必ずある。

今朝は歩きながらふと、あぁ、わたしは他者からの基準や評価があるとものすごく安心するんだ、と気づいた。

それは「よい」と評価されることでも、「ダメだ」と評価されることでも。

たとえば、会社の中のことを考えたとき、自分よりも上の人がいて、よいだのダメだの言われると、自分の位置が明確で、所在のなさに気づかなくてすみ、存在の不安をごまかせる。

でも、そうした基準や評価は本当に正しいのか、自分を生きやすく自由にしてくれるのかはわからないこと。

よくできると評価されることも、逆にあなたはダメだと評価されることも、本当に表裏一体。

そのことがふと腹に落ちると同時に、身体の膨らみや浮腫が少しひいた。

もしかすると、そうした価値観は自分を幸せな状態から遠ざけてしまうことに気づき、もうそのやり方はやめてもよいと決断し始めた瞬間なのかもしれない。

一度こうした気づきで一瞬でも立ち止まることができれば、あとは何度でも選択し直せるはず。

小さな小さな希望の光に思える。

2017年5月17日水曜日

父との壁

今日の時点で、人生の3分の2以上、わたしの中で父は悪者扱いだった。

随分ひどいこともした。

大人になり、母との関係性について立ち止まると同時に、父からどれほどのまなざしと見返りのない愛情を与えられてきたのかを知ったし、自分が本当はどれほどお父さんのことが大好きかも知ることになった。

父との関係はそこからがスタートで、親子といえども、長年の空白を埋めることは本当に難しく感じてきた。

それは今も同じで、その関係性は脆く、なにかの拍子に壊れてしまうかもしれないと感じることもある。

二人きりでのお茶やごはんに誘ってみたり、家族三人での話の中で母が会話を横取りするのを父に戻すようにしたり、形の上でも色々やろうとしてはきた。

根本はわたし自身の心の中の問題だが、それでも形の上での関係性を築くことも大切だと思っている。

空白期間が長すぎて、どこかぎこちない部分もあるし、父から○○しようよという強い誘いや、なにもない中で父の方から延々と愚痴が出てくることもあまりない。

それが、今夜は父から電話がかかってきて、母への愚痴や、母と二人きりの旅行は嫌だから一緒に行かないかという強い誘いがきて、これまであまりない感じだったから、ちょっとうれしくなった。

話す内容に関係なく、どんなことでも気づきやつながることへの入口になるけれど、そもそもその機会がなければ難しい。

父の「自分がお母さんよりも大人になって我慢してあげているんだ!」という言葉には笑えたし、父は本当に抜きん出てダメダメなことでいっぱいだけれど、いつか母も父の愛情に気づく日がくるといいなとそっと思う。

2017年5月13日土曜日

お母さん、わたしの話も聞いてよ!

母と境界線を保ったり、わたしがわたしらしくあるとは本当はどういうことだろう・・・と問いかけるようになって、母との関係性への捉え方は日々変わりつつある。

母が根本的にはなにも変わっていないように思えてしまっても。

そうした中でも、母がわたしの話を全然聞いてくれず、いつも自分の言いたいことだけを話すということには、今も怒りと悲しみを何度も何度も感じてしまう。

見知らぬ人がわたしたちの母娘関係を見ると、一見すると、和やかに話をしていて仲もよさそうで、母は娘のことを気にかけているように見えることすらあるかもしれない。

実際には、母は常に自分のことに一生懸命で、常に主人公でありつづけて、他者が誰も関われない一人きりの世界の中にいつづけている。

例えば、わたしが具体的に伝えなければならない用事があっても、その話をする前に母の話にすり替わってしまったり、高熱でうなされていても母の話が延々とつづいたり。

なので、もっとたわいもない話は母の耳にも届かず、笑いや親密さといったことも起こり得ない。

その「共有できない漠然としたなにか」に違和感を感じ、これ以上無視できないと感じたのが数年前。

違和感からもう少し深く探っていったら、そこには気づいてもらえなかったわたしの怒りや悲しみがあった。

このことへの怒りを持ちつづけているわたしは、別の意味で母と同じで、ストーリの主人公になりたがり、被害者でいることを選択し、他者を責めたい衝動に駆られる。

実際に、母以外の人との関係の中でも同じことが起こり、怒りがわきおこり、パターンは何度でも繰り返されることに気づかざるを得なかった。

それを見たときに、悲しみがあることは無視しないけれど、母との関係で満たされなかったこの怒りを他者のせいにするのはもうやめようと決めた。

こうした選択をつづける中で、母がまったく話を聞いてくれない人でも、その在りようを心からゆるせるといいなと思う。

2017年3月6日月曜日

繰り返すパターン

家族関係の連鎖は自分の中の問題をどこかで終わらせない限り、永遠に同じパターンを繰り返していくのではないか、とわたしは思う。

(↑だから、今の自分がこうなのは、決して家族や両親のせいではない。)

これまで自分自身のすべてや自分の選択に自信がもてず、パートナー関係を築けなかった。

安心する人、好きになった人、色んな楽しい時間を過ごした人たちはいるけれど。

関係が築かれてしまうのが怖いから、強力なバリアを張ってきた。

そのやり方ってずるいなぁと今は少しだけ、ばかばかしく笑える。

わたしは、結婚・出産を経験していてもおかしくない年齢だ。

周りの信頼できる人たちに、とりあえず今のままで飛び出してごらんと何度も何度も言われて、ようやく一歩を踏み出した。

色々な人と出会ってみて、メッセージのやりとりや会話をする中で、わたしは両親の期待に応えることやその快感や偽の安心を選択することはやめたけれど、今度は特にパートナーとなる人との間でそのパターンを繰り返すなぁと強烈に痛感している。

誰一人として「わたし」を見ているのではなく、幻想と錯覚と期待の入り混じった眼鏡を通してしかわたしを見ていない。

否定されるのが怖いから、受け入れられたいから、別に好きでもない相手なのに、ついう~んと背伸びしようとしてしまう。

期待に応えれば安心だというこのパターンをひとつずつやめていこうと決めた。